小説以外にも目をむける。興味ある世界はひろがる一方ですが、なんとなく億劫で、なかなか手が出ません。が、すこしづつよみすすめてゐるところです。よむのが遲いのがなやみ。
いつまでよんどるんだ、といふほど、すすまない。といふのは、何度か中斷してゐるから。なにか別のよみたいものがでてくると、そのたびごとに本棚にもどされた、さういふ存在。そんなこんなだが、やつことさ、下巻までたどりついた。しかし、また、中斷される氣がする。この文章は、感想文ではない。
おもしろい、ううむ。が、よんだのは結構前で、圖書館でかりたものであり、いま手元にないので、感想がかけない。この文章は感想文ではない。
執権時頼と廻国伝説 著:佐々木馨(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)
以下、つらつらと感想を書くが、『ことばと文化』と同じく、圖書館で借りた本であり、手元にないので、正確性にかけるところがある。
なんだか、よほど時褚が好きなんだなあ。「時頼といえども「人の子」」(だつたか)とかいふ表現が二箇所(だつたか)あつたことは、好くあまりに、筆がすべつたのだらうか。時頼の二つの顔(だつたか)といふ章では、武将としての時褚と佛繁者としての時褚をえがくのだが、撫民をキーワードにし、説いてゐる。ここでも、政治家といふ風ではなく、民に對して慈しみをもつてゐる優しき施政者、といふ感じであつた。
そこが氣になる、はたしてこれで、時褚に對しての正當な評価になるのだらうか、といふ氣がする、疑問におもふのだ。ここを強調して、その後の論、つまり、時褚の廻国傳説はあつたのだらうか、といふ問題に對して、作者は、廻国傳道*1はあつたのだ、もしくは限りなく史實にちかい、と説く。ここに、「贔屓」の感情により加味してしまつたところはなかつたのだらうか、といふ風に勘ぐつてしまふ。どうなんでせうか。
ところで、讀者をまきこんで、「私たちの時褚」(だつたか)とか「私たちの言う「禅密主義」」(だつたか)とか書くのは不快なので、やめてほしい。おしつけがましく感じてしまつた。
んでも、おもしろかつた。