くわうほう

使ひます

吉田へ

近場といふことで、ひさかたぶりに、三河へ行きました。吉田。吉良吉田。天氣は、すごしやすく、あつくはなかつた、さむすぎもせなんだ、といふまことに結構なものでした。ねらひは、金蓮寺。

饗庭神社→白山公園→金蓮寺→小山田地蔵→華蔵寺→花岳寺→吉良吉田驛

金蓮寺へのとほりみちにあつた饗庭神社へいく。白山の中腹にあるちいさなお社。説明板に、足利尊氏の名があつて、そこではじめて吉良吉田と尊氏の關係をしる。

白山公園にいく。白山の名のとほり、加賀の白山とかかはる。この地に移住した加賀出身のひと(名はわすれた)が平泉神社を勧進したといふ。公園は、社がひとつ、それ以外なにもないところだつた。

金蓮寺には、国寶がある。彌陀堂。桧皮葺の屋根。いま、堂内に安置された阿彌陀像他ニ像が、大變な目にあつて修復せなかんらしいので、浄財をいつもよりおほめにする。さて、なんでさうなるのだらうか。軒がふかいところに着目する。つまり、雨ふつたりして、水が屋根をすべるのだが、そのとき、長く、傾斜のゆるい軒を流れずに、しみこんでしまふのではないだらうか、といふ推理。ううむ。その問題の仏像には、錠がかつたつたため、なかにはいれず、會へず。

小山田地蔵は、勝楽寺といふ。金持ちな寺だ、といふ印象。弘法大師關連の行場巡りにはいつてゐるらしいので、真言寺院かとおもひきや、曹洞禅だと。ふうむ。なんだかよう分かりません。なんだかよく分からないので、かへる。

華蔵寺は、吉良氏の菩提寺で、藩主らの墓があるが、それが宝篋印塔になつてゐる。義央のは普通の墓で、めだたない。ううむ。内陣をみて、はらがへつて、とりあへず花岳寺へ移動する。父は車、ぼくは徒歩。花岳寺で合流。

花岳寺も、やはり吉良氏とかかはるらしい。もとは大寺院の塔頭のひとつだつたとかなんとか。さういへば、なんか見た名だとおもつたら、赤穂藩の藩主の菩提寺の名が花岳寺。ううむ。三河に孟宗竹が導入されたはじめての場所だといふが、それを見て、父がおこつた。

吉良吉田驛もみておかう、といふことになる。三河海線が廢線となつて、いまでは、吉良吉田驛はただの通過駅なわけだが、三河線のほうのホーム、線路、架線はまだのこつてゐた。父がそれを見て、三河線のレールは、西尾線のそれよりしよぼい、といふやうなことを解説する。高校生のおほかつたことが印象的だつた。

んで、かへつた。