くわうほう

使ひます

典拠つて

Wikipedia:Attributionのノートで、長々と議論がなされてゐるが、
Wikipedia:Attribution」といふ名をどう日本語におきかへるか、といふことは、特にむづかしい問題のやうだ。
「典拠に基づく」といふのがかなり候補として優勢なのだが、ぼくはこの語に疑問をもつた。
典拠といふのは、それをよりどころにする意思があつて、なりたつものなのではないか、つまり、すでによりどころとなつたものではないか。
その典拠に「基づく」とは、どういふことなのか。
すでに「典拠」となつてゐるものに「基」づくのは、どういふことなのか。

「典拠に基づく」には、意味の重複(後述)がありさうだ、といふ風に感じるのだが、どうなのだらう。

「典拠」といふ語の見慣れなさがさう感じさせる。いや、見慣れないものなら、その意味はとらへづらいはずだし、意味の重複を感じることもないだらう、だで、見慣れなさがさうさせたのではない。

「歌を歌ふ」みたいなもんで、とりたてていふことではない。いや、「歌」は歌はなくても、そこにあるが、「典拠」は典拠としないかぎり、そこにはない、とかんがへると、「典拠に基づく」といふのは、意味の重複といふより、行動の重複(←造語?)があるのではないか。

「よりどころ」と「基づく」は等価ではないか。これはむづかしい。たしかに、ことばがちがへば、類義語も意味がすこしでもかはつてくるのは、たしかなやうである。だがこの場合、「よりどころ」と「基」は、指すものがおなじではなからうか。

かうまとまるだらうか。Wikipediaは、色々な資料をまとめて構成されるものだ。つまり、「典拠」とは、示されることは義務付けられてゐないが、すでに参照されたものであるはずで、新たにそれに「基づく」のは、をかしい。

無理か、これでも説得できんかなあ。

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(追記)
典拠は情報源である、といふはなしについて。これで、「典拠に基づく」のをかしさが、わかるか。
ある記述に對して{{要出典}}がはられたあとで、その記述の情報源としてゐないものをもちだして、さがしだして、
これが「典拠」です、
とするのは、どうだらうか。それでその記述の歸屬性があきらかになつたわけだが、そこに釋然とせんものを感じるのは、「典拠」といふものが、すでに參照されたはずのものなのに、といふ風にかんがへられてゐるからなのではなからうか。
(……、駄目だな)