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アトリエインカーブの作品は

ウィキペディアのアトリエインカーブの記事で、中の人が少し改稿したことについて、ちよつとその中の人と話したのだけれど、ぼくとその人の「アウトサイダー・アートアール・ブリュット)」についての考へ方の違ひは、明らかだつた。いや、踏み込んでは話してゐないけれども。で、問題は、アトリエインカーブの中で作られてゐる美術作品が、アール・ブリュットなのかどうか、といふことなのだけれど、ぼくはこれまでの日本でのアール・ブリュットの文脈から、これらをアール・ブリュット作品であると思つてゐる。で、アトリエインカーブの方は、アトリエインカーブの視点といふ公式サイトでのつぎのことばが、考へ方をよく語つてゐると思ふ。

インカーブのアーティストは、「障がい者アート」や「アウトサイダー・アート」「アール・ブリュット」を軽々と越える創造性を持っています。

といふ風に、「文化的処女性」を條件に持つアール・ブリュットや、「周縁」だと認識させるアウトサイダー・アートを否定する。これに對しての反論は、服部正や小出由紀子の著述を讀めば出てくるし、今回は省略するけれど、ぼくとしては、當事者の意向はともかく、さういふ位置づけがあることそのものは、否定しないでほしいのだ。

インカーブと似たことをしてゐるところは、今日ではいくつもある。それらは、八幡学園、みずのき寮、信楽青年寮、すずかけ作業所といつた、日本のアウトサイダー・アートの歴史の本流のなかでとらへ得るところだと思ふ。ぼくは、障碍者教育の一環としてこれらを見たいのではなく、美術界のある部分として見たいのだけれど、さういふところでアトリエインカーブを捉へるときに、福祉施設による美術活動といふことでアウトサイダー・アートアール・ブリュットといふのは、重要な用語だし、避けられない。

結局、アトリエインカーブで作られる作品(に限らず)がアウトサイダー・アートアール・ブリュットか、さうでないのか、は、見る人がアウトサイダー・アートアール・ブリュットといふ概念を支持するか拒否するかにかかつてゐるのだと思ふ。アトリエインカーブの考へ方も、リンク先を見る限りは、さうではないのか。

(追記)んー、これ、誤解されるかな。

インカーブのアーティストは、「障がい者アート」や「アウトサイダー・アート」「アール・ブリュット」を軽々と越える創造性を持っています。

といふ引用した部分だが、實際は、アウトサイダー・アートや、アール・ブリュットの作品を否定するつもりはないと見る。それは、アトリエインカーブ代表で創設者の今中博之がフェルディナン・シュヴァルの理想宮といふ、アール・ブリュットの代表例にかぞへられるものやアール・ブリュット・コレクションを見て感銘を受けたことを語つてゐることから分る。その創造性を認めてゐることは明白である。