くわうほう

使ひます

ウィキペディア (Wikipedia)の記事を參照して物を書くといふこと

とか云ふのを指定して渡來してみたら、

平成二十一年四月三十日 - 闇黒日記

「トライ」?

      • -

米澤穂信秋期限定栗きんとん事件創元推理文庫、面白かつた。このシリーズで、主人公が二人ともひねくれもので、戀愛物が成立つのか。で、まあ、やはり、戀愛物? と、はてながつくものになつてゐる。とつても米澤先生らしい、このシリーズらしい處理のしかただつたと思ふ。なんか、かう、癇に障るやうな風の。

推理物としては、上下巻としては、ちよつと弱いかもしれない。作中でも、主要事件の規模の小ささを指摘されてゐたけれど、メタ的な発言だつたやうにも思へる。まとまりは、あつた。事件の解決が、主ではなく、登場人物の駆引きにどきどきするサスペンスものとも見える。

辻真先先生の解説を讀んだときが、一番どきどきした。

もともと米澤さんがミステリを書こうと考えたのは、北村薫さん創案の”日常の謎”の魅力に傾倒したかららしい。

残念ながら、この解説を書いている時点で、ぼくは米澤さんに面識がない。だから今わかったようなことを書いたのは、ウィキペディアによる知識にすぎないけれど、そういわれれば随所で納得がゆく。

まあなんと、むちゃくちゃなことを書く人なんだ、辻先生は。かういふことをさも當たり前のやうに言はれても、困る。このウィキペディアの部分を書いたのは、ぼくだ。この、ただの一般人で、米澤先生の作品が好きなだけの、ただの一フアンのぼくだ。ただの、ぼくだ。ぼくは、「米澤さんに面識がない」。だけれど、この、解説のこの部分の記述の元になつた部分を、實際に書いたのだ。なにが、「米澤さんに面識がない」だらう。米澤先生に面識がなければ、この記述が書けないとでも思つたのだらうか。ぼくが、「米澤さんに面識がある」とでも、辻先生は思つたのだらうか。

いや、別に、辻先生に怒ることでもないのだけれど。でも、誤解を越えて、嘘があるのは、確かだらう。なぜなら、ぼくは、資料を見てこの記述を書いたのだから。その資料(『野性時代』2008年6月号、角川書店)は近刊であつて、別に珍しいものでもないし、ぼくが手に入れられて辻先生が手に入れられないわけがない。それを、米澤さんについてウィキペディアに書いてあることだけしか知りません、みたいなことを書くのはどういふことだらうか。また、臆面もなく、ウィキペディアを元に書きました、みたいなことを書いてしまふのは、どういふことだらうか。言ふまでもなく、ウィキペディアの記事は、調べ物のとつかかりとして、ある、ものだ。そこには、理想的な記事なら、出典元と脚註によつて、どこの記述がどこの資料を元にして書かれたのか、大体分るやうになつてゐる、はず。だから、ウィキペディアの記事をもとにして何らかの文章を書くのは、あつてはいけないことだらう。常識的範疇で脚註がない記述ならウィキペディアが出典であることを書く必要がないし、脚註があるなら、それを遡ればいい。脚註がなくて出典元を知りたいなら、參考文献の一覧から探すべきだ。ウィキペディアでしか見當たらない記述は、まづ信用してはならないし、利用してはならない。

書いてゐる立場としては、ウィキペディアの記事は、便利で、役に立つものでありたい、といふのは、當然にある。ただそれは、かういふかたちの利用法ではない。原文にあたつてもらひたくて脚註を書いたのだし、活用したいのなら、著者の義務として果たすべきことだらう、どこの馬の骨が書いてゐるのか、分らないのだから。まして解説者なら。米澤先生にも失禮なのでは。

とにかく、これには驚いた。辻先生のみならず、ウィキペディア利用者には、ウィキペディアの利用法を、その信頼性を基にして考へてもらふ必要があると思ふ。